中島は、’92年3月と’93年6月の2度にわたり、関西国際空港(1994年開港)の建設工事に携わった。この写真は、1度目の1992年に撮影されたもの。このとき、あいりん総合センターから15日か1ヵ月程度のあいだ、契約仕事で働きにいった。写真は、このとき寝泊まりしていた貝塚市の巨大飯場・阪南宿舎である。
1990年代
n27p04_035 ©1992 中島敏
阪南宿舎は、貝塚市湾岸の埋め立て地に建設され、市街地から切り離された「孤島みたいな場所」だった。写真の左側には、何台かのバスが停車している姿が映っている。このバスが労働者たちを満員に積んで、5分ぐらいおきにフェリー乗り場までピストン輸送した。
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2度目となる1993年の関空工事で、中島が寝泊まりしていた宿舎。この宿舎は、忠岡町の湾岸埋め立て地に建設されていた。
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宿舎の敷地のまわりは、有刺鉄線のフェンスで取り囲まれている。
逃亡防止の柵です、飛田遊郭の塀みたいなもん。
2019年12月26日
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忠岡町の宿舎は、相部屋だった。部屋のなかを映したこの写真には、ハイライトとライター、それにワンカップの瓶などが転がっている。これらは、相部屋の労働者が持ち込んだものだ。
ふつう飯場労働では、労働が終わったあとに飲む酒が、労働者の楽しみのひとつである。しかし貝塚の阪南宿舎や忠岡の宿舎では、売店もなければ、アルコールも置いていなかった。労働者どうしのケンカを防ぐ方針だったのだろう。しかも宿舎は市街地から離れた埋め立て地にあり、街に出かけることもできなかった。
一升瓶を持ち込むのはちょっと難しいですよね。焼酎の4合瓶とかだったら、バッグの中にどこでも入ります。そうやって自分の部屋に持ち込んでた人いるでしょ。私なんか、初めて行って勝手を知らなかったから、ねえ 。
2019年12月26日
n27p04_031 ©1992 中島敏
阪南宿舎の風呂場。宿舎の建物のなかに、それぞれ一か所の風呂場が設置されていた。食堂には、ちょっとした距離を歩いて行った記憶がある。
料理の品数は結構多かったですね。栄養計算をちゃんとやってね。飯の量もお代わりできるし、味噌汁もね。おかずの種類は多かったですわ。普通の飯場なんかより、阪南宿舎の食事の方がよかったですね。
2019年12月26日
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特設のフェリー乗り場。業者の車が建ち並ぶうしろには、労働者や資材を運搬するフェリーが映し出されている。朝早くに宿舎からバスでピストン輸送された労働者は、このフェリーに載せられて海上の建設現場に運ばれた。
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フェリーに乗り込む労働者たちで、鉄板の通路はごった返している。労働者の服装は様々であり、なかにはスリッパを履いている労働者もいる。
鳶の恰好の人もいるし、ひっかけのスリッパの人もおりますやん。向こうに着いたら、詰所みたいなものがあるんですよ。そこに、自分の長靴なり足袋なりを置いてるんですよ。何々組の詰所っていうて、プレハブでね。道具とスコップ、足袋とかをあてがわれてるんですよ。
2019年12月26日
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フェリーの船中より撮影。仕事終わり、現場からの帰りの写真。向こう側には、建設中の関西空港が見えている。もう一隻映っているフェリーも、やはり労働者をピストン輸送している船なのだという。
現場での就労時間は、朝の8時から、だいたい夕方の5時ぐらいまで。船の時間が決まっているので終わりは比較的早い。仕事が終わると、ほとんど待ち時間なくフェリーがやってきていた。
この工事に携わっているあいだ、中島はフェリーのなかで、むかし釜ヶ崎にいた友達を偶然みかけた。20年ぶりの再会だったという。けれど、声はかけなかった。
フェリーでばったりみましたよ、声はかけなかったけどね。ああ、いつも来てるな思ってね。それも意外だったですね。まさか関空の工事にね。60年代の後半、釜で付き合ってた男ですけどね。【じゃあ20年ぶりの再会】もう顔みたら分かりましたよ。ほんで、いっぱしの職人の格好してましたからね。
2019年12月26日
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1度目の関西空港建設工事で携わったのは、下水管の配管工事だった。写真はその労働現場。中央には、巨大な下水管が重ねられている。4メートルぐらいの深さまで掘り、底の部分にコンクリを打つ。そうして、これらの下水管をセットしていく。
作業の中心を担うのは専門の職人で、中島は主に手元の仕事に携わっていた。こうした手元の作業には、釜ヶ崎からやってきた労働者が多かった。作業現場は広大な空港建設地である。ぼーっとしてたら迷子になり、下手をすると昼飯にありつけない。日陰のない広大な敷地での労働を、中島は次のように振り返る。
大きなバールを持って、セットしていくのが先頭におるんですよ。ほんでわれわれ雑役がね、言われた通りの高さまでずっと設置していくんですよ。だから、仕事としては楽な仕事でしたよ。ただこのとき、夏だったんですよ。真夏の暑さとの戦いでしたね。水なんかは現場にあるんですけどね。
2019年12月26日
n28p03_032 ©1993 中島敏
2度目の関空工事の労働現場。完成間近で、奥のほうには空港のターミナルに向かう道路の陸橋がそびえたっている。このとき中島は、高槻にある飯場が請け負った区間の工事に携わっていた。仕事の内容は、写真右側に積んであるU字溝を職人がセットし、その高さまで盛り土をしていくというもの。上を覆うためのアスファルトの厚さの分を残す高さまで、盛り土をしていった。
現場には、全国各地からの業者や労働者が集っていた。ときに、九州弁を話す労働者の声を耳にすることもあった。
「よかよか」とかね、北のほうの九州特有の。その連中は、宿舎では部屋が違ってました。向こうはグループで、毎日は顔を合わせなかったね。
2019年12月26日