釜ヶ崎との出会い

釜ヶ崎では、1961年8月の第一次暴動以来、繰り返し暴動が起こされた。それらの暴動に引き寄せられるように、幾人もの活動家や記録者が釜ヶ崎に来る。中島敏も、その一人である。1947年、香川県小豆島に生まれた中島は、大阪市にある日本写真専門学校に入学し、阿倍野区で下宿していた。1966年5月、釜ヶ崎で暴動(第3次暴動*)が起きたことを知る。地図でみると、自転車で行ける距離にあると分かり、さっそく訪ねてみた。すでに暴動は終わっていたが、気さくで自由な雰囲気を感じた。そのときは30分ほど見学してまわっただけだったが、これが、釜ヶ崎との初めての出会いだった。

* 暴動の数え方は、主体によって異なる。『定点観測 釜ヶ崎』巻末の年表では ’66年5月の暴動は「第2次」と表記されている。しかし中島さんの見方によれば、同書の年表では1964年6月の暴動が見落とされており、’64年6月を「第2次」とすると’66年5月が「第3次暴動」となる。

釜ヶ崎の労働者になる

写真学校を卒業したのち、学校の紹介で土門拳の弟子筋にあたる写真家のアシスタントとして働くことになった。その当時に携わった仕事は、万博の直前ということもあり広告関連が多く、休みなく働いた。忙しいとはいえ、給料は比較的よかった。だが、中島は半年ほどでアシスタントを辞めることになる。きっかけは、暴力的な労働環境だった。ミスをして殴られるならまだ納得できるが、そうでなくても殴られるのが日常的な世界だ。理解しがたい暴力に耐えられず、写真家のもとを去った。

アシスタントを辞めたのち、しばらくは中央卸市場の果物屋でアルバイトをした。客の車まで二輪車で配達をする仕事で、給料は安い。このころに、万博工事で沸く釜ヶ崎で仕事の単価が上がっていることを伝える新聞記事を読んだ。当時のアルバイトの3倍くらいの日当であることを知り、釜ヶ崎に「出稼ぎ」に行くようになった。京阪電車沿線の野江にあったアパートを借りたまま、週に3〜4日、釜ヶ崎で働くようになる。当時はあいりん総合センターが建設される以前であり、旧寄り場から働きに行っていた。万博関連の建設工事が多く、アメリカ館のパビリオン建設の責任者が住む家を建設する工事にも携わった。

当時寝泊まりしていたのは、「南極」というドヤだった。鉄のパイプで上下階に分かれたカイコ棚式で、上階に泊まっていた。このとき、下の労働者が寝ている姿を撮影した。これが、釜ヶ崎を撮影した初めての写真である。やがて野江のアパートを引き払い、あらたにこの地域内のアパートを借りて、釜ヶ崎の労働者として生活するようになっていく。

釜ヶ崎を記録する

意識的に釜ヶ崎を記録しようと思った背景には、当時の写真文化があった。井上青龍や森山大道をはじめ、独自の視点と切り口から都市現実や社会問題に迫ろうとする写真家に影響を受けた。また、同世代の写真家が新人賞を受賞する姿をみて、「たいしたことはない」と思うと同時に、これなら自分も撮れると確信をもった。これらのことが、釜ヶ崎を撮ろうとする最初のきっかけとなる。

以後、中島は地域内のアパートに住まいながら、建設業や港湾運送業、製造業の現場など、さまざまな現場に従事した。また、’69年の全港湾建設支部西成分会の結成の場に参加し、’72年以降には暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議(釜共闘)の傍らで撮影するなど、闘争の現場をも記録してきた。最初のころに使っていたカメラは ミノルタSR-1 と、ポケットに入るオリンパスのカメラだった。のちに速写性に優れた普及機ニコマートを経て ニコンF3 にもちかえる。

n06p03_025 ©1973 中島敏