n04p06_014 ©1973 中島敏

新今宮駅につづく「廊下みたいなところ」から撮影したあいりん総合センター。手前に移っている屋根は二階建てのドヤであり、その後高層に建て替えられたため、現在はこのアングルからの写真は撮影できない。停まっている車は、飯場手配の車だという。73年当時は、不況の最中である。この写真について、中島は次のように語る。

雨なんかで求人が少なかったんじゃないですか。ここに映ってるのは、あぶれてるような人や

2020年1月30日

n05p03_013 ©1973 中島敏

センターの建物と道路(尼崎平野線、通称「尼平線」)とのあいだには、柵で囲われている敷地が広がっている。これは尼平線が拡幅される以前だったため生み出された敷地だった。現在は道路が拡幅されることにより、この敷地は潰されている。

交差点の角に立つ労働者は、鳶の職人だと思われる。

いまの鳶は、ズボンの絞りが足首まで来て、引きずるぐらいの感じでしょ。昔はこのスタイルだったんですよ。ニッカズボンではなしにね、これが職人のスタイル。たぶんこれは、アピールしてるわけですよ。俺は仕事が出来るぞ、ということをね。

2020年1月30日

写真に映し出されているように、あいりん総合センター1階の部分には求人業者が労働力を求めて集い、労働者は求人業者と相対して仕事を探した。その様子を、中島は次のように語る。

親父によったら、手をね、ばっと掴まえてみるわけよ。手をみたら、どういう仕事をどれぐらいやってきたか分かるんやね。学生の手なんか、ぶよぶよじゃないですか。一時間もスコップ持ったらマメができるようなね。そんなもん現場では使いもんにならんからね。手を掴むんよ、バッとみせろって、そして車に乗れって。

2020年1月30日

n05p03_008 ©1973 中島敏

あいりん総合センター1階部分を、2階(構造上は吹き抜け上の3階にあたる)にのぼる階段の途中から撮影した写真。中島自身が上階のあいりん職安で認定をもらう途中に撮影した。

センターの1階や2階には食堂が建ち並び(もとは青空労働市場の時代に歩道で営業していた店だという)団子汁を出す店もあれば、即席ラーメンをつくって出す店もあった。とくに団子汁は労働者に人気だったという。

てんぷらカスとネギをぱぁ〜といれてね、塩味してるんですよ。私はああいうの好きやからよく食べてましたよ

2020年1月30日

写真の右手には新聞の売店があり、手前の労働者は新聞を広げている。なかには、朝早くに地下鉄に行き、通勤のサラリーマンが読み捨てた新聞や雑誌をかき集めて売る者もいた。この写真のなかでは、たくさんの労働者が集い、顔をつきあわせて談笑している。センターで労働者たちが繰り広げる社交性について、中島は次のように語る。

やっぱね顔見知り探してね、内輪の話をするんですよ。「あそこの飯場はどうだった」とか「昨日行ったところが良かった」とかね、情報交換をする。【このシーンがそうなんですね?】もう顔見知りよね。お〜、とかいうて。飯場に行く人は情報が欲しいんですよ、行く人はね。メシのこととか、どういう仕事をやってるとかね。【確かに、みんな情報交換してるように見えますね。】顔が向き合ってるでしょ。やっぱ知り合いを探しに行くんですよ、すーっとね。【ああ、それぞれ向き合ってるなぁ。】朝礼みたいなもんですわ。【朝礼って、朝の?】朝の朝礼。認定もらう前の。やっぱり情報収集って、ものすごく大事ですからね、ここでは。こういう日雇いの稼業では。

2020年1月30日

n08p11_016 ©1974 中島敏

1974年はオイルショックによる不況の只中で、多くの労働者が失業していた。センター2階のあいりん職安の窓口で認定をもらうために、労働者が行列をつくっている姿が映し出されている。中島自身も行列に並びながら、この写真を撮影した。

私の番号は22802なんですよ。やっぱりこれ忘れないですね、いまだに

2020年1月30日

番号とは、白手帳に付された番号である。釜ヶ崎の労働者にとって、白手帳は寄せ場の労働者であることの証しだった。また中島にとっては、アブレ手当は写真の活動をつづけるための拠り所でもあった。

アブレ賃はしょっちゅうもらってました。その金でまた写真を撮る。スポンサーみたいなもんやね。あの制度がなかったら、やっぱこれだけ撮れてないですよね、仕事ばっかり行ってたんじゃあ。

2020年1月30日

n12p03_001 ©1985 中島敏

センター内に設置されていた噴水。インタビューの聞き手らが古くから釜ヶ崎を知る労働者から聞いた話によると、オープンしたばかりの頃にはここで水が流れていたが、労働者が洗濯をはじめて水は止められたという。噴水の柱にかたどられた子どもの像の腕が折れていたのが印象的で、中島はカメラを向けた。

ポーンと腕からね、折れてるんですよ。これがね、面白いと思ってね。

2020年1月30日

n19p03_021 ©1986 中島敏

労災事故死を伝える張り紙には、36際、沖縄県出身とある。「若いなあ」と一言、中島は思い出したように沖縄出身の労働者について次のようなエピソードを語った。

津守あたりのほうでね、沖縄の人らがベランダのコンクリ打ちやっててね。コンクリごとだーっと下へ落ちてしまってね。マンションのベランダ部分のコンクリ打ちですよ。結局、型枠の強度が足りなかったんやね。ものすごいコンリートの重量。水の何倍かあるんですよ。強度計算してベランダに張り出してる型枠だったら、簡単に落ちることはないんですよ。それがもう、一箇所落ちたら、重みで全部順繰りに落ちてしまって。犠牲になったのは、沖縄の労働者やな。【お一人なくなったんですか。】いやもう、一人二人やないよ。出稼ぎの労働者やったね。

2020年1月30日

n28p03_005 ©1993 中島敏

炊き出しに並ぶ労働者の列を映した写真。2階にあがる階段からみた光景が構図としておもしろいと思い、撮影した。左側の隠れているところで炊き出しが行なわれており、センターを何周も折り返すほど、長い行列ができていた。この写真は、バブル崩壊後の失業が釜ヶ崎にいかに深刻な影響を与えたのかを物語っている。