n27p04_031 ©1992 中島敏

阪南宿舎の風呂場。宿舎の建物のなかに、それぞれ一か所の風呂場が設置されていた。食堂には、ちょっとした距離を歩いて行った記憶がある。

料理の品数は結構多かったですね。栄養計算をちゃんとやってね。飯の量もお代わりできるし、味噌汁もね。おかずの種類は多かったですわ。普通の飯場なんかより、阪南宿舎の食事の方がよかったですね。

2019年12月26日
現物資料
貼紙(阪南宿舎1992)

n28p03_036 ©1993 中島敏

フェリーに乗り込む労働者たちで、鉄板の通路はごった返している。労働者の服装は様々であり、なかにはスリッパを履いている労働者もいる。

鳶の恰好の人もいるし、ひっかけのスリッパの人もおりますやん。向こうに着いたら、詰所みたいなものがあるんですよ。そこに、自分の長靴なり足袋なりを置いてるんですよ。何々組の詰所っていうて、プレハブでね。道具とスコップ、足袋とかをあてがわれてるんですよ。

2019年12月26日

n27p04_028 ©1992 中島敏

フェリーの船中より撮影。仕事終わり、現場からの帰りの写真。向こう側には、建設中の関西空港が見えている。もう一隻映っているフェリーも、やはり労働者をピストン輸送している船なのだという。

現場での就労時間は、朝の8時から、だいたい夕方の5時ぐらいまで。船の時間が決まっているので終わりは比較的早い。仕事が終わると、ほとんど待ち時間なくフェリーがやってきていた。

この工事に携わっているあいだ、中島はフェリーのなかで、むかし釜ヶ崎にいた友達を偶然みかけた。20年ぶりの再会だったという。けれど、声はかけなかった。

フェリーでばったりみましたよ、声はかけなかったけどね。ああ、いつも来てるな思ってね。それも意外だったですね。まさか関空の工事にね。60年代の後半、釜で付き合ってた男ですけどね。【じゃあ20年ぶりの再会】もう顔みたら分かりましたよ。ほんで、いっぱしの職人の格好してましたからね。

2019年12月26日

n27p04_029 ©1992 中島敏

1度目の関西空港建設工事で携わったのは、下水管の配管工事だった。写真はその労働現場。中央には、巨大な下水管が重ねられている。4メートルぐらいの深さまで掘り、底の部分にコンクリを打つ。そうして、これらの下水管をセットしていく。

作業の中心を担うのは専門の職人で、中島は主に手元の仕事に携わっていた。こうした手元の作業には、釜ヶ崎からやってきた労働者が多かった。作業現場は広大な空港建設地である。ぼーっとしてたら迷子になり、下手をすると昼飯にありつけない。日陰のない広大な敷地での労働を、中島は次のように振り返る。

大きなバールを持って、セットしていくのが先頭におるんですよ。ほんでわれわれ雑役がね、言われた通りの高さまでずっと設置していくんですよ。だから、仕事としては楽な仕事でしたよ。ただこのとき、夏だったんですよ。真夏の暑さとの戦いでしたね。水なんかは現場にあるんですけどね。

2019年12月26日

n28p03_032 ©1993 中島敏

2度目の関空工事の労働現場。完成間近で、奥のほうには空港のターミナルに向かう道路の陸橋がそびえたっている。このとき中島は、高槻にある飯場が請け負った区間の工事に携わっていた。仕事の内容は、写真右側に積んであるU字溝を職人がセットし、その高さまで盛り土をしていくというもの。上を覆うためのアスファルトの厚さの分を残す高さまで、盛り土をしていった。

現場には、全国各地からの業者や労働者が集っていた。ときに、九州弁を話す労働者の声を耳にすることもあった。

「よかよか」とかね、北のほうの九州特有の。その連中は、宿舎では部屋が違ってました。向こうはグループで、毎日は顔を合わせなかったね。

2019年12月26日