n01p02_035 ©1969 中島敏

中島は、建設現場のほかにも様々な労働に従事してきた。たとえば製造業関連では、木津川沿いにある名村造船所で塗装作業の足場を組む仕事。港湾運送業関連では、大阪港の三突(第三突堤)にある冷蔵倉庫で、ハイつけ(積荷を積み重ねる仕事)の仕事に就いたこともある。冷蔵庫のなかは、マイナス20度の震えあがるような気温だった。

写真は、大阪港でのスクラップ本船の荷役の労働現場である。労働現場にカメラを持ち込むのはきわめて難しい。この写真は、トイレに行ってくると言って現場を抜け出し、監督の目をぬすんで撮影したもの。使用したのは、ポケットに入るオリンパスの35ミリのカメラだった。

当時の港湾労働には「ニヌキ(荷抜き)」と呼ばれる慣習があり、船内のスクラップの中に混じっている銅や真鍮などを工具で外し、陸に持ち帰ってヨセヤに売るなどしていた。中島によれば、そのような行為は青手帳(登録日雇労働者手帳)をもつ労働者に多く、釜ヶ崎からやって来る労働者が行なうことはなかった。しかし中島は、神戸の三宮ちかくの冷蔵庫の現場で、釜ヶ崎からの労働者がカートンを壊し、中に入っていたケーキやカニを食べる光景を目にしたことがある。

蟹の足をバラバラにして持ち帰ってね。昼休みの時間に冷蔵庫の前で火を焚いて、解凍してぐわっと食べてる労働者がいたね。

2020年1月30日

n27p04_029 ©1992 中島敏

1度目の関西空港建設工事で携わったのは、下水管の配管工事だった。写真はその労働現場。中央には、巨大な下水管が重ねられている。4メートルぐらいの深さまで掘り、底の部分にコンクリを打つ。そうして、これらの下水管をセットしていく。

作業の中心を担うのは専門の職人で、中島は主に手元の仕事に携わっていた。こうした手元の作業には、釜ヶ崎からやってきた労働者が多かった。作業現場は広大な空港建設地である。ぼーっとしてたら迷子になり、下手をすると昼飯にありつけない。日陰のない広大な敷地での労働を、中島は次のように振り返る。

大きなバールを持って、セットしていくのが先頭におるんですよ。ほんでわれわれ雑役がね、言われた通りの高さまでずっと設置していくんですよ。だから、仕事としては楽な仕事でしたよ。ただこのとき、夏だったんですよ。真夏の暑さとの戦いでしたね。水なんかは現場にあるんですけどね。

2019年12月26日

n28p03_032 ©1993 中島敏

2度目の関空工事の労働現場。完成間近で、奥のほうには空港のターミナルに向かう道路の陸橋がそびえたっている。このとき中島は、高槻にある飯場が請け負った区間の工事に携わっていた。仕事の内容は、写真右側に積んであるU字溝を職人がセットし、その高さまで盛り土をしていくというもの。上を覆うためのアスファルトの厚さの分を残す高さまで、盛り土をしていった。

現場には、全国各地からの業者や労働者が集っていた。ときに、九州弁を話す労働者の声を耳にすることもあった。

「よかよか」とかね、北のほうの九州特有の。その連中は、宿舎では部屋が違ってました。向こうはグループで、毎日は顔を合わせなかったね。

2019年12月26日