中島は、建設現場のほかにも様々な労働に従事してきた。たとえば製造業関連では、木津川沿いにある名村造船所で塗装作業の足場を組む仕事。港湾運送業関連では、大阪港の三突(第三突堤)にある冷蔵倉庫で、ハイつけ(積荷を積み重ねる仕事)の仕事に就いたこともある。冷蔵庫のなかは、マイナス20度の震えあがるような気温だった。
写真は、大阪港でのスクラップ本船の荷役の労働現場である。労働現場にカメラを持ち込むのはきわめて難しい。この写真は、トイレに行ってくると言って現場を抜け出し、監督の目をぬすんで撮影したもの。使用したのは、ポケットに入るオリンパスの35ミリのカメラだった。
当時の港湾労働には「ニヌキ(荷抜き)」と呼ばれる慣習があり、船内のスクラップの中に混じっている銅や真鍮などを工具で外し、陸に持ち帰ってヨセヤに売るなどしていた。中島によれば、そのような行為は青手帳(登録日雇労働者手帳)をもつ労働者に多く、釜ヶ崎からやって来る労働者が行なうことはなかった。しかし中島は、神戸の三宮ちかくの冷蔵庫の現場で、釜ヶ崎からの労働者がカートンを壊し、中に入っていたケーキやカニを食べる光景を目にしたことがある。
蟹の足をバラバラにして持ち帰ってね。昼休みの時間に冷蔵庫の前で火を焚いて、解凍してぐわっと食べてる労働者がいたね。
2020年1月30日