n27p04_002 ©1992 中島敏

杉山建設で出されていた弁当。力仕事のわりに粗末。中島は、飯場で出される弁当にこだわりがあり、ほとんど全部撮影しているという。

これは、マカロニでしょ。【マカロニはわかるんですけど…。】その下に、ハンバーグみたいなんがある。これ、野菜ですよ。ツマというか。

2019年12月26日

n27p04_004 ©1992 中島敏

宿舎のなかにはゲーム機を並べた部屋があった。写真には、ゲーム機の前にぽつねんと座る労働者の姿が映っている。

飯代は日当からかなり引かれたと思いますよ。【飯代が高い割に弁当がよくないということですね。】それで儲けるわけですからね、人夫出し飯場は。【しかも、ゲーム機は充実してる。何台もある。】それでまた支払った賃金を回収するわけ。

2019年12月26日

n27p04_015 ©1992 中島敏

梅本工業所、所在地は姫路市の網干。神戸製鋼加古川製鉄所の下請け業者で、定期修繕の業務を専門に請け負っていた。ここに寝泊まりする労働者は、業者の車に乗って加古川の現場まで仕事に行っていた。「喰い抜き」(飯代が引かれないこと)の一ヵ月契約であり、良心的な飯場だった。

わりかし人気ありましたよ、ずーっと3ヶ月ぐらいいる人いましたよ。まとまった金になるんだよね、喰い抜きだから。飯代が1200円とか、ねえ。大きいですよ、引かれたら。

2019年12月26日
現物資料
給与明細(梅本工業所1992)

n27p04_013 ©1992 中島敏

建物の1階が事務所と食堂、2階が宿舎になっている。中島は、以下のような順路を経て、釜ヶ崎から梅本工業所に行ったのだという 。

最寄りの駅に着くでしょう。センターの紹介状に電話番号が書いてあるんですよ。そんで駅前に必ず公衆電話あるからね、着きましたと電話を入れる。そしたら迎えに来るんですよ。

2019年12月26日

n27p04_012 ©1992 中島敏

宿舎内部の部屋は個室で、小ざっぱりしている。エアコンも入っていた。

ここは布団も、洗濯したやつを置いてくれとんですよ。自分でシーツをかけるんです。掛け布団と敷布団をね。そういうところ、多いですよ。飯場に着いたら、ちゃんとこれを使ってくださいという意味で置いてあるんです。

2019年12月26日

n27p04_016 ©1992 中島敏

飯場の敷地内の中庭。テーブルの上には、盆栽が飾られている。洗濯竿に並んでいるのは、職人が着るつなぎの作業服である。梅本工業所はもともと鍛冶屋が得意で、溶接などを手がける職人が3、4人いた。

つなぎを洗濯してるでしょ、溶接の職人がこれを着てるんですよ。私なんかはこんな格好じゃないんですけどね。

2019年12月26日

n28p11_008 ©1993 中島敏

尾張鉄の常磐寮、所在地は京都市の太秦。中島が古参の労働者から聞いたところによると、業者名の「尾張鉄」は、会津小鉄に由来するという。釜ヶ崎からは電車で西院駅に行き、駅から電話をかけ、番頭さんに迎えに来てもらった。食事がいい飯場で、中島は3回ぐらい行ったことがある。

一番最初に行ったときは相部屋だったんですよ。部屋の上の梁がむき出しでね。これは写真撮っとかなあかんと思って、だけど、その時はたまたまカメラ持って行ってなかったんですよ。もうほんま、むき出しの梁。三角形のね。両脇に布団並べてね、典型的な大部屋ですわ。それが頭に残ってたんだけど、2回目に行ったらもう潰されてた。あれ、おしかったね。

2019年12月26日

n28p11_015 ©1993 中島敏

個室の部屋は広めで、エアコンも備えつけられている。

常磐寮(個室内布団)

尾張鉄では、コンクリ打ちの仕事が多かった。たとえば、京都の高島屋の増館工事に携わったことがある。その労働の様子を、中島は次のように語った。

京都の高島屋の、増館工事をね。地中梁のコンクリ打ちって知ってる? 鉄筋のことを言うんですよ、地中梁って。いちばん建物の基礎のところに、杭を打ち込んでるでしょ。その上にザーッと、床の高さまでコンクリート打つんですよ。まわりをね、工事用の高い塀で囲ってるでしょ。夏の暑いことね。そんなもう、汗が噴き出るんですよ。当然、水や番茶も持ってきてるんだけどね。もう、ばんばん飲んでなかったら熱中症ですよ。コンクリート打ちやから、バイブレーターで使ってたらね、作業着なんか、ぼとぼとになるぐらい汗が吹きますよ。【現場けっこうしんどかった?】それはしんどかった、もう暑さがね、それが一番えらいの。

2019年12月26日

n28p11_013 ©1993 中島敏

ここはね、料理が得意だった。あの姉さんはね。漬物いうたら、京都の漬物ね。何種類もテーブルの上にあってね。私も漬物すきやからね。あれだけでビール飲めるからね。ほかに魚料理も肉料理なんかも、手が込んでて上手やった。だからね、この飯場は長い人が多かった。ずーっといてる人がいた。食事だけでも理由になりますからね。よそ行ったって、もらう金はほとんど一緒ですから。食事は行くところによって違いますからね。いいところがあれば、ここにおろか、という気になる。

2019年12月26日

n27p04_034 ©1992 中島敏

中島は、’92年3月と’93年6月の2度にわたり、関西国際空港(1994年開港)の建設工事に携わった。この写真は、1度目の1992年に撮影されたもの。このとき、あいりん総合センターから15日か1ヵ月程度のあいだ、契約仕事で働きにいった。写真は、このとき寝泊まりしていた貝塚市の巨大飯場・阪南宿舎である。

n27p04_035 ©1992 中島敏

阪南宿舎は、貝塚市湾岸の埋め立て地に建設され、市街地から切り離された「孤島みたいな場所」だった。写真の左側には、何台かのバスが停車している姿が映っている。このバスが労働者たちを満員に積んで、5分ぐらいおきにフェリー乗り場までピストン輸送した。

n28p03_018 ©1993 中島敏

忠岡町の宿舎は、相部屋だった。部屋のなかを映したこの写真には、ハイライトとライター、それにワンカップの瓶などが転がっている。これらは、相部屋の労働者が持ち込んだものだ。

ふつう飯場労働では、労働が終わったあとに飲む酒が、労働者の楽しみのひとつである。しかし貝塚の阪南宿舎や忠岡の宿舎では、売店もなければ、アルコールも置いていなかった。労働者どうしのケンカを防ぐ方針だったのだろう。しかも宿舎は市街地から離れた埋め立て地にあり、街に出かけることもできなかった。

一升瓶を持ち込むのはちょっと難しいですよね。焼酎の4合瓶とかだったら、バッグの中にどこでも入ります。そうやって自分の部屋に持ち込んでた人いるでしょ。私なんか、初めて行って勝手を知らなかったから、ねえ 。

2019年12月26日
現物資料
紹介票(関西新空港1993)