n01p01_019 ©1969 中島敏

1970年にあいりん総合センターが建設される以前、南海線ガードの西側に青空労働市場が広がっていた。この写真は求人が終わったあと、午前9時前ぐらいの時間に撮影されたもの。労働者が道いっぱいに広がり、露天の労働市場を形成していたことが分かる。手前には、警察官の後ろ姿が映し出されている。

この時間には、お巡りがいつもおったんですよ。トラブルを未然に防ごうとして、交通整理も兼ねて、睨みをきかせてるわけやね。

2020年1月30日

n01p01_022 ©1969 中島敏

中島が釜ヶ崎で労働を始めたのも、この旧寄り場を通じてであった。最初に携わった仕事は、万博関連の仕事だった。ほかにも万博関連では、ソ連館や日本庭園などのパビリオンで、片づけの仕事に就いた。

また、1969年には釜ヶ崎で全港湾建設支部西成分会が結成されている。中島はその結成集会にも参加していた。全港湾西成分会の結成は、釜ヶ崎における労働運動史の始まりを告げる画期だった。次々に主体化していく労働者の勢いに背中を押され、中島自身も抗議行動を起こした経験がある。

ことの顛末は次のとおりだ。あるとき中島は、白川建設のもとで万博会場での労働に携わっていた。白川建設は人夫出し業者で、釜ヶ崎の労働者のあいだでは「ケタオチ」(ケタ外れに質の悪い業者)として知られていた。この作業中にボーシン(現場責任者)が、車の荷台に乗っているケーブル線を指さして、「これをぜんぶ埋設したら終わりだ」と言った。このような仕事は、労働者の言葉で「コマ割り」や「やり終まい」と呼ばれ、ノルマさえ達成すれば時間に関係なく1日分の日当をもらえる。このボーシンの言葉に労働者は奮起して、3~4時間で仕事をやり終えた。ところが飯場に帰ってみると、親方は明らかに不満顔で、1日分の日当を出し渋る気配をみせた。面子を潰されそうになったボーシンは、親父に対して「日当を出してやってくれ」と哀願しはじめる。その言葉尻をとらえて、中島は「親父、出さんかい」と詰め寄ったのである。

ものすごく強気で、親父と一対一になるぐらいの剣幕で、前に出ていってね。そうすると、後ろにいた連中も加勢してくるわけよ。「わしらにも1日分の日当を出さんか!」「ボーシンが出すと言うたやないか」って言ってね。

2020年1月30日

一致団結した労働者の要求を前に、しぶしぶ親父は1日分の日当を支払った。

n01p02_035 ©1969 中島敏

中島は、建設現場のほかにも様々な労働に従事してきた。たとえば製造業関連では、木津川沿いにある名村造船所で塗装作業の足場を組む仕事。港湾運送業関連では、大阪港の三突(第三突堤)にある冷蔵倉庫で、ハイつけ(積荷を積み重ねる仕事)の仕事に就いたこともある。冷蔵庫のなかは、マイナス20度の震えあがるような気温だった。

写真は、大阪港でのスクラップ本船の荷役の労働現場である。労働現場にカメラを持ち込むのはきわめて難しい。この写真は、トイレに行ってくると言って現場を抜け出し、監督の目をぬすんで撮影したもの。使用したのは、ポケットに入るオリンパスの35ミリのカメラだった。

当時の港湾労働には「ニヌキ(荷抜き)」と呼ばれる慣習があり、船内のスクラップの中に混じっている銅や真鍮などを工具で外し、陸に持ち帰ってヨセヤに売るなどしていた。中島によれば、そのような行為は青手帳(登録日雇労働者手帳)をもつ労働者に多く、釜ヶ崎からやって来る労働者が行なうことはなかった。しかし中島は、神戸の三宮ちかくの冷蔵庫の現場で、釜ヶ崎からの労働者がカートンを壊し、中に入っていたケーキやカニを食べる光景を目にしたことがある。

蟹の足をバラバラにして持ち帰ってね。昼休みの時間に冷蔵庫の前で火を焚いて、解凍してぐわっと食べてる労働者がいたね。

2020年1月30日

n04p06_014 ©1973 中島敏

新今宮駅につづく「廊下みたいなところ」から撮影したあいりん総合センター。手前に移っている屋根は二階建てのドヤであり、その後高層に建て替えられたため、現在はこのアングルからの写真は撮影できない。停まっている車は、飯場手配の車だという。73年当時は、不況の最中である。この写真について、中島は次のように語る。

雨なんかで求人が少なかったんじゃないですか。ここに映ってるのは、あぶれてるような人や

2020年1月30日

n05p03_013 ©1973 中島敏

センターの建物と道路(尼崎平野線、通称「尼平線」)とのあいだには、柵で囲われている敷地が広がっている。これは尼平線が拡幅される以前だったため生み出された敷地だった。現在は道路が拡幅されることにより、この敷地は潰されている。

交差点の角に立つ労働者は、鳶の職人だと思われる。

いまの鳶は、ズボンの絞りが足首まで来て、引きずるぐらいの感じでしょ。昔はこのスタイルだったんですよ。ニッカズボンではなしにね、これが職人のスタイル。たぶんこれは、アピールしてるわけですよ。俺は仕事が出来るぞ、ということをね。

2020年1月30日

写真に映し出されているように、あいりん総合センター1階の部分には求人業者が労働力を求めて集い、労働者は求人業者と相対して仕事を探した。その様子を、中島は次のように語る。

親父によったら、手をね、ばっと掴まえてみるわけよ。手をみたら、どういう仕事をどれぐらいやってきたか分かるんやね。学生の手なんか、ぶよぶよじゃないですか。一時間もスコップ持ったらマメができるようなね。そんなもん現場では使いもんにならんからね。手を掴むんよ、バッとみせろって、そして車に乗れって。

2020年1月30日

n05p03_008 ©1973 中島敏

あいりん総合センター1階部分を、2階(構造上は吹き抜け上の3階にあたる)にのぼる階段の途中から撮影した写真。中島自身が上階のあいりん職安で認定をもらう途中に撮影した。

センターの1階や2階には食堂が建ち並び(もとは青空労働市場の時代に歩道で営業していた店だという)団子汁を出す店もあれば、即席ラーメンをつくって出す店もあった。とくに団子汁は労働者に人気だったという。

てんぷらカスとネギをぱぁ〜といれてね、塩味してるんですよ。私はああいうの好きやからよく食べてましたよ

2020年1月30日

写真の右手には新聞の売店があり、手前の労働者は新聞を広げている。なかには、朝早くに地下鉄に行き、通勤のサラリーマンが読み捨てた新聞や雑誌をかき集めて売る者もいた。この写真のなかでは、たくさんの労働者が集い、顔をつきあわせて談笑している。センターで労働者たちが繰り広げる社交性について、中島は次のように語る。

やっぱね顔見知り探してね、内輪の話をするんですよ。「あそこの飯場はどうだった」とか「昨日行ったところが良かった」とかね、情報交換をする。【このシーンがそうなんですね?】もう顔見知りよね。お〜、とかいうて。飯場に行く人は情報が欲しいんですよ、行く人はね。メシのこととか、どういう仕事をやってるとかね。【確かに、みんな情報交換してるように見えますね。】顔が向き合ってるでしょ。やっぱ知り合いを探しに行くんですよ、すーっとね。【ああ、それぞれ向き合ってるなぁ。】朝礼みたいなもんですわ。【朝礼って、朝の?】朝の朝礼。認定もらう前の。やっぱり情報収集って、ものすごく大事ですからね、ここでは。こういう日雇いの稼業では。

2020年1月30日

n08p11_016 ©1974 中島敏

1974年はオイルショックによる不況の只中で、多くの労働者が失業していた。センター2階のあいりん職安の窓口で認定をもらうために、労働者が行列をつくっている姿が映し出されている。中島自身も行列に並びながら、この写真を撮影した。

私の番号は22802なんですよ。やっぱりこれ忘れないですね、いまだに

2020年1月30日

番号とは、白手帳に付された番号である。釜ヶ崎の労働者にとって、白手帳は寄せ場の労働者であることの証しだった。また中島にとっては、アブレ手当は写真の活動をつづけるための拠り所でもあった。

アブレ賃はしょっちゅうもらってました。その金でまた写真を撮る。スポンサーみたいなもんやね。あの制度がなかったら、やっぱこれだけ撮れてないですよね、仕事ばっかり行ってたんじゃあ。

2020年1月30日

n12p03_001 ©1985 中島敏

センター内に設置されていた噴水。インタビューの聞き手らが古くから釜ヶ崎を知る労働者から聞いた話によると、オープンしたばかりの頃にはここで水が流れていたが、労働者が洗濯をはじめて水は止められたという。噴水の柱にかたどられた子どもの像の腕が折れていたのが印象的で、中島はカメラを向けた。

ポーンと腕からね、折れてるんですよ。これがね、面白いと思ってね。

2020年1月30日

n19p03_021 ©1986 中島敏

労災事故死を伝える張り紙には、36際、沖縄県出身とある。「若いなあ」と一言、中島は思い出したように沖縄出身の労働者について次のようなエピソードを語った。

津守あたりのほうでね、沖縄の人らがベランダのコンクリ打ちやっててね。コンクリごとだーっと下へ落ちてしまってね。マンションのベランダ部分のコンクリ打ちですよ。結局、型枠の強度が足りなかったんやね。ものすごいコンリートの重量。水の何倍かあるんですよ。強度計算してベランダに張り出してる型枠だったら、簡単に落ちることはないんですよ。それがもう、一箇所落ちたら、重みで全部順繰りに落ちてしまって。犠牲になったのは、沖縄の労働者やな。【お一人なくなったんですか。】いやもう、一人二人やないよ。出稼ぎの労働者やったね。

2020年1月30日

n28p03_005 ©1993 中島敏

炊き出しに並ぶ労働者の列を映した写真。2階にあがる階段からみた光景が構図としておもしろいと思い、撮影した。左側の隠れているところで炊き出しが行なわれており、センターを何周も折り返すほど、長い行列ができていた。この写真は、バブル崩壊後の失業が釜ヶ崎にいかに深刻な影響を与えたのかを物語っている。

n27p04_011 ©1992 中島敏

中島は、数々の飯場を経験した。一度きりの飯場もあれば、何度も通った飯場もある。写真は、兵庫県伊丹市の杉山建設。人夫出しの業者であり、武庫川ちかくの171号線沿いにプレハブの宿舎が建っていた。この飯場に行ったのは、一度きりであった。

n27p04_001 ©1992 中島敏

宿舎の廊下はかなり狭いが、これは当時の人夫出し飯場では一般的なタイプである。左右に並ぶ部屋のなかで、労働者たちが寝泊まりしていた。

癖の悪いのがいたらね、廊下で肩が当たったの当たらんのでケンカになりますよ。新人は「これ古株だあ」ってことになったらね、通しますよ。へこへこしてね。

2019年12月26日